深夜に仕事をしていて、偶然スマホの画面に、この美輪明宏さんの画像が写りました。「ヨイトマケの唄」は昔からよく知っています。魂をゆさぶられる唄です。
深夜でした。しかしとても聴きたくなり、スマホを耳に当てボリュームを絞って聴きました。
この「ヨイトマケの唄」のことはWikipediaでも詳細に記されています。
カバーするミュージシャンも多岐に渡ります。差別用語があるからという理由で、ながらく日本民間放送連盟より要注意歌謡曲に指定されていました。1964年に発表されたこの曲は、それからまもなく民放では封印されてしまいました。高度成長期に、私たちのTVは「差別用語」という名のもとに、この「ヨイトマケの唄」を排除したのです。視聴者からのクレームがこわかったからでしょうか?しかしクレームがおこる唄だったでしょうか?工事現場で働いて働いて働いた労働者たちの残影が、この唄の底流にはある気がします・・・。
その封印の呪縛が解かれるきっかけは、2000年に訪れました。
フジテレビでこの唄を唄った桑田佳祐さん。封印された事の経緯をテロップにして流し、桑田さんは「ヨイトマケの唄」を歌いました。実に約四十年という月日が流れていました。
唄は死ななかったのです。40年生き続けて再び陽の目をみたのです。
それから12年。美輪明宏さんがデビュー60年を迎えた2012年の『第63回NHK紅白歌合戦』に(驚くべきことに!)初出場されて、この唄を披露しました。
紅白歌合戦をみない私でも、この美輪さんの「ヨイトマケの唄」だけは聴きたくてTVをみました。心のどこかに美輪さんを応援したい気持ちがありました。この唄を守り続けてこられた美輪さんへのエールをおくりたかったのだと思います。そして唄に描かれる「かあちゃん」を応援する気持ちがあったかもしれません。
この唄が発表された1964年は、東京オリンピックが開催された年です。
東京オリンピックに間に合うようにして、東京には首都高が走り、新幹線が開通しました。建設現場で働く大勢の人々のおかげで今の東京、そして日本は急速に近代化をなしとげました。
美輪さんは『徹子の部屋』でこの唄の誕生秘話を語っておられます。
社会性のある歌は歌ってはいけないという風潮がある時代に、TVで歌うと全国から2万通、そして再び歌うと5万通とアンコールの手紙がきたそうです。美輪さんは労働者の方々からの投書だったと語っておられます。
唄をつくろうと思ったきっかけが明かされました。炭鉱町の壊れかけた公民館で歌った時、自分はきらびやかな衣装であるのに、炭鉱で働きかけつけたお客さんは炭塵にまみれており、ぎっしりとなったそんなお客さんを前にして、きらびやかな衣装で歌ってる自分が情けなく、申し訳なく、穴があったら入りたいくらいだったと告白されました。貧しいのにチケットを買って来てくださった方々を慰める唄が、自分にはなかったことが、この唄をつくるきっかけになったそうです。
その時まで、働く人の歌は日本になかった。ならば自分がつくろう。そう思ったそうです。
戦前の小学校の頃の思い出。貧しくてイジメられていた同級生の働く母親のエピソード。その母性。わが子にかける愛情。「人間で一番偉かとはね、とにかく正直でお天道様の前に胸張って誰も指さされね。一生懸命働いて正直に生きて、それ一番偉かとよ」と息子に語る同級生の母親の記憶。
終戦後大陸から戦災孤児でひとり引揚げてきた少年。釘1本でもネジ1本でも知っておかないとエンジニアにはなれないんだよ。だから現場監督からやるんだといった大学生。
「終戦後はもうそういう人いっぱいいましたんですよ」「3人ぐらいの人のエピソードが全部そこで合流して重なって、神様からのご褒美だと思います」
「その音の流れもなるべく単純明快なメロディにして、なるべく簡単にして、無駄を全部省いて必要なものだけを残して。でそうすると自分の想念の中でその焼き付いてる風景をいかにお客様の一人一人の方たちにボキャブラリが違っても同じ映像が写し絵のようにねうんそのお送りすることができるかって」
こうして「ヨイトマケの唄」は世に送り出されました。
そこには母の愛があり、我が子のために働く母がおり、その母への感謝があり、なにより働くこととは何か?という問いかけに対する尊いアンサーがあるように私には思えます。
働くこととは何か?
「ヨイトマケの唄」の中に、すべてが語られている気がします。